碧川かたについて


江戸から明治への動乱の中、碧川かたは鳥取藩家老の次女として生をうけ、明治、大正、昭和、三代を生き抜き、90歳で波瀾万丈の人生を全うしました。

15歳で龍野の名家三木家の当主三木制(すさむ)に気に入られ次男節次郎と結婚、長男操(後の露風)、次男(勉)の2児をもうけますが、家庭を顧みぬ夫との折り合いが悪くなり、やむなく離婚しました。

露風は6歳の時、最愛の母との悲しい別れを迎えたのです。『かたは何故、露風を残して去らねばならなかったのか?』かたは女性がものを言えない封建時代、舅より「自由になりなさい」と言われ、長男で跡取りである露風をやむなく龍野に残し、婚家を去らざるを得なかったのです。

かたはこのような経験から「悲しい人、苦しい人、病める人のお友達になりたい」と看護婦の道を志します。

結婚、離婚、シングルマザーを経て、新聞記者の碧川企救男氏と再婚、子育て、共働きを経験してきました。

そのような中、ベルサイユ講和の取材の後、立ち寄った英国からの手紙に、婦人参政権獲得運動の様子が書かれており、それを見たかたは感銘をうけそれが動機となり、また当時の日本の社会に重くのしかかる矛盾や不条理に促され、婦人参政権運動や禁酒運動などに身を捧げる人となりました。

昨今、子どもへの虐待や育児放棄、DVなど、人命を軽視する極めて嘆かわしい事件が頻発する現代社会―――。

少子高齢化社会、女性進出活躍社会と言われていますがかたの生き方は現代女性にも通ずるところが沢山あります。

「ひとの生き方は地位や名誉や財産でなく、どれだけ人のために生きられたか?」とかたは、私たちに投げかけています。

かたの生き様は現代を生きる私たちの歩む姿勢に示唆を与えているのではないでしょうか。


赤とんぼ碧川かた 略年譜

1872年
(明治5年)
0歳:
鳥取池田藩元家老和田邦之助信且(のぶゆき)とみねの次女として生まれる。生後間もなく和田家の重臣堀正と妻千代の養女となる。
※龍野の戸籍によるが明治2年、明治3年出生説もある
1887年
(明治20年)
15歳:
堀正が龍野監獄の典獄(刑務所長)となり、かたは花嫁修業として龍野の円覚寺(龍野町本町)で漢学、行儀作法を習い始める。
1888年
(明治21年)
16歳:
龍野町長で九十四銀行頭取の三木制(すさむ)に気に入られ、その次男節次郎と結婚
1889年
(明治22年)
17歳:
長男 操(後の露風)誕生
1892年
(明治25年)
20歳:
次男 勉 誕生
1895年
(明治28年)
23歳:
夫節次郎と離婚。勉を連れて鳥取に帰るが堀正を頼って上京。その時、東京の大学に進学する17歳の碧川企救男に同行してもらった。東京帝国大学病院付属看護養成所に入所。勉を三木家の望みもあり引き取ってもらう。弓町本郷教会に通うようになり洗礼を受ける。
1897年
(明治30年)
25歳:
優秀な成績で東京帝国大学病院付属看護養成所を卒業し、看護婦となる。

碧川かた

1902年
(明治35年)
30歳:
独逸(ドイツ)留学を薦められるが小樽新聞の記者となった碧川企救男と結婚するため北海道へ渡る。一男二女に恵まれる。

家族写真
※碧川かたの家族写真

1908年
(明治41年)
36歳:
碧川一家、上京。三女誕生。かたは出張看護婦として働く。四女誕生。
1918年
(大正7年)
46歳:
露風の弟、勉、結核で亡くなる。(26歳)
1919年
(大正8年)
47歳:
企救男が取材で倫敦(ロンドン)に滞在中。「禁酒・婦人参政権運動」を知り、かたに手紙を送る。かたは「東京婦人禁酒会」を設立し会長になる。
1925年
(大正14年)
53歳:
「婦人参政同盟」を組織し、主婦の立場から婦女解放運動を行う。「婦人参政権法律案」を第52回帝国議会に提出する。
1927年
(昭和2年)
55歳:
女権擁護会を設立。雑誌「女権」を発行し、「鐘は既に鳴れり猶ほ目覺ざるか」など発表。

女権
※碧川かた発刊の「女権」創刊号

1934年
(昭和9年)
62歳:
企救男亡くなる。(57歳)
1945年
(昭和20年)
73歳:
婦人参政権が認められた。
1954年
(昭和29年)
82歳:
目の病(そこひ)を患い、検査の帰り道、息子道夫に行きたいところを聞かれ、国会議事堂に連れて行ってもらう。
1962年
(昭和37年)
90歳:
露風や企救男との子どもらに囲まれ、生涯を閉じた。

碧川かた相関図
※クリックで拡大できます。

赤とんぼ三木露風へのファンレター―赤とんぼの母・かたの生涯―

※兵庫大学エクステンションカレッジ YouTubeより

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